解説

2017年8月12日、桜坂劇場(那覇)の入り口には猛暑にも関わらず何百メートルもの長蛇の列ができていた。『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』の沖縄での公開初日である。列に並んだおじいやおばあたちは口々に「カメさんに会いに来た」と語った。それほどまでにカメさん=瀬長亀次郎は、沖縄県民にとっては今も心の中に不屈の精神の柱として生き続けている。沖縄の熱気は、東京、大阪、名古屋、京都、札幌をはじめ、全国に伝わり、大きなブームを巻き起こした。

 『その名は、カメジロー』は、平成30年度文化庁映画賞・文化記録映画優秀賞、2018アメリカ国際フィルム・ビデオ祭(US International Film&Video Festival)銅賞、2017年度日本映画批評家大賞/ドキュメンタリー賞、2017年度日本映画復興賞、2017年度日本映画ペンクラブ賞/文化部門第1位など数々の賞を受賞し、ドキュメンタリー映画として高く評価された。

 そして2019年8月、カメジローの生涯をさらに深く、そして復帰に向けた沖縄の激動を描いたドキュメンタリー映画『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』が公開される。

 カメジローは230冊を超える日記を詳細に書き残していた。そこには、妻や娘らと過ごす家族の日常や政治家・夫・父親など様々な顔があった。その日記を丹念に読み解き、改めて生涯を描くことでカメジローが宿した“不屈”の精神を浮かび上がらせる。また、教公二法阻止闘争、毒ガス移送問題やコザ騒動など、一瀉千里のように返還へ向けて進んでいく熱い闘いを精緻に描いていく。そして、カメジローと当時の佐藤首相の国会での迫力ある魂の論戦に、沖縄の心、そして今なお解決されない事象の原点が浮き彫りになる。

 音楽は1作目と同じく坂本龍一が担当。「Sacco」に加え、新たに書きおろした曲「Gui」がカメジローの不屈の生涯を静かに熱く奏でる。また、語りは役所広司。確かな口調が胸を打つ。

「大地にしっかりと根をおろしたガジュマルは

どんな嵐にさらされてもびくともしない」(瀬長亀次郎)

瀬長亀次郎PROFILE

1907年6月10日 沖縄県島尻郡豊見城村(現、豊見城市)我那覇に生まれる。

1924年 出稼ぎでハワイに行っていた父に呼ばれ、沖縄県立二中(現、沖縄県立那覇高等学校)を中退するも、米国の対日移民法発効で渡米できず。

1926年 東京・順天中学(現、順天中学校・高等学校)に編入。

1927年 医師を志し、旧制第七高等学校(現、鹿児島大学)に進んだが、社会主義運動に加わったことを理由に放校処分となる。

1932年 丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法で検挙され、懲役3年の刑で投獄。

1936年 沖縄朝日新聞の記者になる。

1938年 兵役召集され「中支」へ。

1940年 復員し、毎日新聞那覇支局記者になる。

1945年 沖縄県北部の山奥で敗戦を迎える。田井等市の助役に就任し、避難民の救援にあたる。

1946年 うるま新報(現、琉球新報)社長に就任。

1947年 沖縄人民党結成に参加。

1950年 沖縄群島知事選挙に出馬するが、落選。

1952年 第1回立法議員選挙で最高得票数で当選。この選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否したことで占領軍から睨まれることとなる。

1954年 沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑で逮捕。弁護人なしの裁判で、懲役2年の判決を受け、投獄される(沖縄人民党事件)。

1956年 出獄後、那覇市長選に出馬し、当選。

1957年 市長の座から追放(瀬長布令)。

1966年 瀬長布令の廃止により、被選挙権を回復。

1967年 拒否され続けたパスポート取得が17回目の申請で許可され、上京。全国各地を回って米軍占領支配下の沖縄の実情をうったえる。

1968年 立法院議員選挙に最高得票で当選。

1970年 戦後沖縄初の国政参加選挙で衆議院議員に当選(以後7期連続当選)。

1971年 沖縄の施政権返還をめぐる衆院沖特委で佐藤首相を追及。

1990年 衆議院議員勇退。

2001年10月5日 死去 享年94歳。 

沖縄戦後史

教公二法阻止闘争
1967年(昭和42年)2月24日、沖縄県那覇市の立法院前で、琉球政府与党の提案する二つの法案に反対する教職員らと警官隊が衝突した。教職員の政治行為の制限、争議行為の禁止等を盛り込んだ「地方教育区公務員法」「教育公務員特例法」がその前年に立法院に勧告されると、沖縄教職員会は立法院前の泊まり込みなどで反対の意思を表明していた。当時、教職員会は祖国復帰運動、自治権拡大運動の要となっていた。採決予定日の2月24日、強行採決される動きに、教職員を中心におよそ2万人が議会前に集結。立法院議長は、与野党の協定を結ぶことで事態の収拾を図ることとし、後に二つの法案は廃案となった。
コザ騒動
ベトナム戦争中の1970年(昭和45年)12月20日未明、コザ市(現在の沖縄県沖縄市)で発生。発端は、米軍人が運転する車両が道路横断中の男性をひっかけてケガを負わせた事故。事故処理中のMP(Military Police 憲兵)を見物人が取り囲み、「糸満の二の舞を繰り返すな」と騒ぎになる。糸満町(現在の糸満市)で酒気帯び運転で主婦を轢き殺した米兵が軍事裁判で無罪となったばかりだったため、米軍への反感が高まっていた。MPの威嚇発砲をきっかけに、集まった群集が駐車中の米軍関係車両に次々と放火。琉球警察は全警官を非常召集し、米軍はカービン銃で武装したMP約300人を出動させたが、約7,000人とにらみあうなど、騒ぎは朝まで続いた。この騒動で住民、警官ら23人が重軽傷を負い、19人が逮捕された。
毒ガス兵器移送(レッドハット作戦)
1971年(昭和46年)、沖縄の米軍基地に貯蔵されていた毒ガス兵器が、米国領内のジョンストン島へ向けて移送された。米軍は、コザ市に隣接する美里村(現沖縄市)知花弾薬庫(レッドハットエリア)などに致死性の毒ガス(主要成分はイペリット・サリン・VXガス)を秘密裏に備蓄。1969年7月致死性のVXガスが漏れる事故が起き、米軍人ら24人が中毒症で病院に収容されたことを米紙ウォール・ストリート・ジャーナルが報じたことで、施設内に毒ガス兵器が存在することが明らかになり、米軍はこの事実を認めた。毒ガス兵器の総量は1万3千トン。周辺住民は事故の再発におびえ、島ぐるみの撤去運動が起こった。しかし、移送先がなかなか決まらず、道路の建設費など移送に関わる費用は日本政府負担で、存在発覚から2年余りが経過してようやく撤去が完了した。
復帰措置に関する建議書
1971年(昭和46年)秋、沖縄不在のまま日米間の返還交渉が進んでいることを危ぶんだ琉球政府が職員や学識経験者を動員して、復帰にあたっての基地や振興開発のあり方をはじめ、幅広い県民の要望をまとめ、日本政府と返還協定批准国会(沖縄国会)に手渡すために作成した建議書。132ページ、およそ5万5千字に及ぶ。屋良朝苗行政主席(後に初代知事)は11月17日、建議書を携えて上京したが、羽田空港に着陸する直前、衆院特別委員会で沖縄返還協定は強行採決された。建議書が政府や国会に渡る前の強行採決で、沖縄の願いは届かなかった。

沖縄と米軍基地問題

沖縄と米軍基地の歴史的側面
沖縄の米軍基地ができた歴史的背景
豊かな自然と独特な文化を有する沖縄は、太平洋戦争において、史上まれにみる熾烈な地上戦が行われ、「鉄の暴風」と呼ばれたほどのすさまじい砲撃により、緑豊かな島々は焦土と化しました。
 沖縄に上陸した米軍は、住民を収容所に強制隔離し、土地の強制接収を行い、次々と新しい基地を建設していきました。住民は土地を有無を言わさず奪われました。
 日本本土では昭和31年(1956年)の経済白書で「もはや戦後ではない」とされ、高度経済成長が始まりましたが、ちょうどその時期に、本土の米軍基地の整理縮小の流れを受けて、本土から沖縄に海兵隊の移転が進みました。
 戦後、沖縄は、昭和47年(1972年)の本土復帰まで27年間にわたり、米軍の施設権下にありました。本土復帰後も、本土では基地の整理縮小が進む中、沖縄には多くの米軍基地が日米安全保障条約に基づく提供施設・区域として引き継がれ、県民は過重な基地負担を背負うことになり、現在もその負担は重くのしかかっています。
米軍統治下における沖縄の状況
戦後すぐの昭和20年(1945年)から昭和24年(1949年)までの5年近く、本土では戦後の復興政策が図られる中、沖縄はほとんど放置状態で「忘れられた島」と言われました。これは、アメリカの軍部と政府側の調整に時間がかかり、明確な統治政策が図られなかったためです。
 その後、昭和24年(1949年)5月にアメリカ政府は沖縄の分離統治の方針を決め、昭和25年(1950年)2月にGHQが沖縄に恒久的基地を建設する声明を発表し、沖縄の分離統治を決定しました。この時から米軍による沖縄の基地化が進んでいきました。
 昭和27年(1952年)にサンフランシスコ講和条により日本は独立国としての主権を回復しますが、その代償として、沖縄は日本本土から分断され、米国の施政権下に置かれました。沖縄には日本国憲法の適用もなく、国会議員を送ることもできませんでした。
 また、米軍の施政権下におかれた沖縄は、27年間もの間、日本政府から十分な支援を受けることができませんでした。その結果として、昭和47年(1972年)に本土に復帰した時の沖縄は、道路、港湾、学校、病院、住宅など社会資本のあらゆるものが不足していた状況でした。
沖縄県HP内「沖縄から伝えたい。米軍基地の話」より引用。
沖縄にある米軍基地の状況
沖縄県には、31の米軍専用施設があり、その総面積は1万8,609ヘクタール、沖縄県の総面積の約8%、人口の9割以上が居住する沖縄本島では約15%の面積を占めています。その規模は東京23区のうち13区覆ってしまうほどの広大な面積です。

 沖縄が本土に復帰した昭和47年(1972年)当時、全国の米軍専用施設面積に占める沖縄県の割合は約58.7%でしたが、本土では米軍基地の整理・縮小が沖縄県よりも進んだ結果、現在では、国土面積の約0.6%しかない沖縄県に、全国の米軍専用施設面積の約70.6%が集中しています。(平成29年1月1日現在)

※米軍専用施設・・・自衛隊が管理する共用施設とは異なり、専(もっぱ)ら日米地位協定のもとで管理、運営され、基本的にはその運用に国内法が適用されず、また、立ち入り許可なども米軍の裁量によりなされる施設

※本ページで記載している面積、割合等は米軍専用施設のものであり、米軍が自衛隊等の施設を一時使用(共同使用)している面積は除いています。

沖縄県HP内「沖縄から伝えたい。米軍基地の話」より引用。

魂の国会論戦

1971年12月4日(土)衆議院沖縄北方特別員会にて、瀬長亀次郎は佐藤栄作首相(当時)に質問する機会を得る。
亀次郎は、逮捕から那覇市長就任、その後の兵糧攻めや水攻め、布令による追放という自らのこれまでの経験を語り、沖縄における米兵の関与する事件に触れて、なぜ基地のない沖縄を求めるのかを、日米間で結ばれた沖縄返還協定への疑問とともに佐藤首相にぶつけた。

監督のことば

佐古忠彦
前作「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」の公開から半年が経った2018年2月、私は、230冊以上に及ぶ瀬長亀次郎の日記に再び向き合い始めていた。いったん区切りを迎えたはずの取材だったが、まだまだ広く深いカメジローの世界から離れられないでいた。ずっと心に引っかかっていた、前作を鑑賞してくださったお客様の数々の言葉がある。

「家庭でのカメジローの顔を知りたい」
「どうして、こんなに不屈の精神を宿すに至ったのか?」

こういう声もあった。「かっこいいカメジローは分かった。かっこ悪いカメジローもみてみたい」つまり、闘う不屈の男だけでなく、まさに“人間”カメジローをもっと見たいということなのだろう。

次女・千尋さんは、父・亀次郎の日記を発見したときの感想を、「沖縄の戦後史が詰まっている」と語ったが、そこには、それに加え、家族の歩み、亀次郎の本音、知られざる素顔が隠されている。そんな前作には盛り込めなかった素顔のカメジローへのアプローチは、「米軍が最も恐れた男」の実像をさらに浮き彫りにすることになった。

もちろん、闘うカメジローも健在である。那覇市長を追放された後も、米軍との不屈の闘いは続いた。それは民衆の自治を求める闘いに結び付き、民主主義を勝ち取る闘いとして記憶されていく。

「この沖縄の大地は、再び戦場となることを拒否する!基地となることを拒否する!」

前作でご覧いただいた、国会論戦で時の首相に激しくぶつかっていった亀次郎の姿に、多くの人が快哉を叫んだが、その魂の言葉を生みだした原点も日記に残されていた。亀次郎は、何のためにこれほど不屈に一本の道を歩み続けたのか。その先に何があったのか。沖縄の歴史と亀次郎の言葉が、その答えを導き出す。そして、それは、後世へのメッセージとなって語りかけてくる。
佐古監督 PROFILE
1988年 東京放送(TBS)入社
1996年~2006年 筑紫哲也NEWS23
2006年~2010年 政治部
2010年~2011年 Nスタ
2014年~2017年 報道LIVEあさチャン!サタデー Nスタニューズアイ
2013年~ 報道の魂(現 JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス)プロデューサー
近年の作品
2013年 「生きろ~戦場に残した伝言」
2014年 「生きろ~異色の司令官が伝えたこと」
「茜雲の彼方へ~最後の特攻隊長の決断」
2015年 「戦後70年 千の証言スペシャル 戦場写真が語る沖縄戦・隠された真実」
2016年 報道の魂SP「米軍が最も恐れた男~あなたはカメジローを知っていますか」
2017年 映画『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』