解説
『その名は、カメジロー』は、平成30年度文化庁映画賞・文化記録映画優秀賞、2018アメリカ国際フィルム・ビデオ祭(US International Film&Video Festival)銅賞、2017年度日本映画批評家大賞/ドキュメンタリー賞、2017年度日本映画復興賞、2017年度日本映画ペンクラブ賞/文化部門第1位など数々の賞を受賞し、ドキュメンタリー映画として高く評価された。
カメジローは230冊を超える日記を詳細に書き残していた。そこには、妻や娘らと過ごす家族の日常や政治家・夫・父親など様々な顔があった。その日記を丹念に読み解き、改めて生涯を描くことでカメジローが宿した“不屈”の精神を浮かび上がらせる。また、教公二法阻止闘争、毒ガス移送問題やコザ騒動など、一瀉千里のように返還へ向けて進んでいく熱い闘いを精緻に描いていく。そして、カメジローと当時の佐藤首相の国会での迫力ある魂の論戦に、沖縄の心、そして今なお解決されない事象の原点が浮き彫りになる。
音楽は1作目と同じく坂本龍一が担当。「Sacco」に加え、新たに書きおろした曲「Gui」がカメジローの不屈の生涯を静かに熱く奏でる。また、語りは役所広司。確かな口調が胸を打つ。
どんな嵐にさらされてもびくともしない」(瀬長亀次郎)
瀬長亀次郎PROFILE
1924年 出稼ぎでハワイに行っていた父に呼ばれ、沖縄県立二中(現、沖縄県立那覇高等学校)を中退するも、米国の対日移民法発効で渡米できず。
1926年 東京・順天中学(現、順天中学校・高等学校)に編入。
1927年 医師を志し、旧制第七高等学校(現、鹿児島大学)に進んだが、社会主義運動に加わったことを理由に放校処分となる。
1932年 丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法で検挙され、懲役3年の刑で投獄。
1936年 沖縄朝日新聞の記者になる。
1938年 兵役召集され「中支」へ。
1940年 復員し、毎日新聞那覇支局記者になる。
1945年 沖縄県北部の山奥で敗戦を迎える。田井等市の助役に就任し、避難民の救援にあたる。
1946年 うるま新報(現、琉球新報)社長に就任。
1947年 沖縄人民党結成に参加。
1950年 沖縄群島知事選挙に出馬するが、落選。
1954年 沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑で逮捕。弁護人なしの裁判で、懲役2年の判決を受け、投獄される(沖縄人民党事件)。
1956年 出獄後、那覇市長選に出馬し、当選。
1957年 市長の座から追放(瀬長布令)。
1966年 瀬長布令の廃止により、被選挙権を回復。
1967年 拒否され続けたパスポート取得が17回目の申請で許可され、上京。全国各地を回って米軍占領支配下の沖縄の実情をうったえる。
1968年 立法院議員選挙に最高得票で当選。
1970年 戦後沖縄初の国政参加選挙で衆議院議員に当選(以後7期連続当選)。
1971年 沖縄の施政権返還をめぐる衆院沖特委で佐藤首相を追及。
1990年 衆議院議員勇退。
2001年10月5日 死去 享年94歳。
沖縄戦後史
沖縄と米軍基地問題
沖縄に上陸した米軍は、住民を収容所に強制隔離し、土地の強制接収を行い、次々と新しい基地を建設していきました。住民は土地を有無を言わさず奪われました。
日本本土では昭和31年(1956年)の経済白書で「もはや戦後ではない」とされ、高度経済成長が始まりましたが、ちょうどその時期に、本土の米軍基地の整理縮小の流れを受けて、本土から沖縄に海兵隊の移転が進みました。
戦後、沖縄は、昭和47年(1972年)の本土復帰まで27年間にわたり、米軍の施設権下にありました。本土復帰後も、本土では基地の整理縮小が進む中、沖縄には多くの米軍基地が日米安全保障条約に基づく提供施設・区域として引き継がれ、県民は過重な基地負担を背負うことになり、現在もその負担は重くのしかかっています。
その後、昭和24年(1949年)5月にアメリカ政府は沖縄の分離統治の方針を決め、昭和25年(1950年)2月にGHQが沖縄に恒久的基地を建設する声明を発表し、沖縄の分離統治を決定しました。この時から米軍による沖縄の基地化が進んでいきました。
昭和27年(1952年)にサンフランシスコ講和条により日本は独立国としての主権を回復しますが、その代償として、沖縄は日本本土から分断され、米国の施政権下に置かれました。沖縄には日本国憲法の適用もなく、国会議員を送ることもできませんでした。
また、米軍の施政権下におかれた沖縄は、27年間もの間、日本政府から十分な支援を受けることができませんでした。その結果として、昭和47年(1972年)に本土に復帰した時の沖縄は、道路、港湾、学校、病院、住宅など社会資本のあらゆるものが不足していた状況でした。
沖縄県HP内「沖縄から伝えたい。米軍基地の話」より引用。
沖縄が本土に復帰した昭和47年(1972年)当時、全国の米軍専用施設面積に占める沖縄県の割合は約58.7%でしたが、本土では米軍基地の整理・縮小が沖縄県よりも進んだ結果、現在では、国土面積の約0.6%しかない沖縄県に、全国の米軍専用施設面積の約70.6%が集中しています。(平成29年1月1日現在)
※米軍専用施設・・・自衛隊が管理する共用施設とは異なり、専(もっぱ)ら日米地位協定のもとで管理、運営され、基本的にはその運用に国内法が適用されず、また、立ち入り許可なども米軍の裁量によりなされる施設※本ページで記載している面積、割合等は米軍専用施設のものであり、米軍が自衛隊等の施設を一時使用(共同使用)している面積は除いています。
魂の国会論戦
1971年12月4日(土)衆議院沖縄北方特別員会にて、瀬長亀次郎は佐藤栄作首相(当時)に質問する機会を得る。亀次郎は、逮捕から那覇市長就任、その後の兵糧攻めや水攻め、布令による追放という自らのこれまでの経験を語り、沖縄における米兵の関与する事件に触れて、なぜ基地のない沖縄を求めるのかを、日米間で結ばれた沖縄返還協定への疑問とともに佐藤首相にぶつけた。
監督のことば
「家庭でのカメジローの顔を知りたい」
「どうして、こんなに不屈の精神を宿すに至ったのか?」
次女・千尋さんは、父・亀次郎の日記を発見したときの感想を、「沖縄の戦後史が詰まっている」と語ったが、そこには、それに加え、家族の歩み、亀次郎の本音、知られざる素顔が隠されている。そんな前作には盛り込めなかった素顔のカメジローへのアプローチは、「米軍が最も恐れた男」の実像をさらに浮き彫りにすることになった。
もちろん、闘うカメジローも健在である。那覇市長を追放された後も、米軍との不屈の闘いは続いた。それは民衆の自治を求める闘いに結び付き、民主主義を勝ち取る闘いとして記憶されていく。「この沖縄の大地は、再び戦場となることを拒否する!基地となることを拒否する!」
前作でご覧いただいた、国会論戦で時の首相に激しくぶつかっていった亀次郎の姿に、多くの人が快哉を叫んだが、その魂の言葉を生みだした原点も日記に残されていた。亀次郎は、何のためにこれほど不屈に一本の道を歩み続けたのか。その先に何があったのか。沖縄の歴史と亀次郎の言葉が、その答えを導き出す。そして、それは、後世へのメッセージとなって語りかけてくる。1988年 | 東京放送(TBS)入社 |
1996年~2006年 | 筑紫哲也NEWS23 |
2006年~2010年 | 政治部 |
2010年~2011年 | Nスタ |
2014年~2017年 | 報道LIVEあさチャン!サタデー Nスタニューズアイ |
2013年~ | 報道の魂(現 JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス)プロデューサー |
2013年 | 「生きろ~戦場に残した伝言」 |
2014年 | 「生きろ~異色の司令官が伝えたこと」 「茜雲の彼方へ~最後の特攻隊長の決断」 |
2015年 | 「戦後70年 千の証言スペシャル 戦場写真が語る沖縄戦・隠された真実」 |
2016年 | 報道の魂SP「米軍が最も恐れた男~あなたはカメジローを知っていますか」 |
2017年 | 映画『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』 |