映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」公式サイト » 瀬長亀次郎PROFILE

――1907年6月10日
沖縄県島尻郡豊見城村(現、豊見城市)我那覇に生まれる。

――1924年
出稼ぎでハワイに行っていた父に呼ばれ、沖縄県立二中(現、沖縄県立那覇高等学校)を中退するも、米国の対日移民法発効で渡米できず。

――1926年
東京・順天中学(現、順天中学校・高等学校)に編入。

――1927年
医師を志し、旧制第七高等学校(現、鹿児島大学)に進んだが、社会主義運動に加わったことを理由に放校処分となる。

――1932年
丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法で検挙され、懲役3年の刑で投獄。

――1936年
沖縄朝日新聞の記者になる。

――1938年
兵役召集され「中支」へ。

――1940年
復員し、毎日新聞那覇支局記者になる。

――1945年
沖縄県北部の山奥で敗戦を迎える。田井等市の助役に就任し、避難民の救援にあたる。

――1946年
うるま新報(現、琉球新報)社長に就任。

――1947年
沖縄人民党結成に参加。

――1950年
沖縄群島知事選挙に出馬するが、落選。

――1952年
第1回立法議員選挙で最高得票数で当選。この選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否したことで占領軍から睨まれることとなる。

――1954年
沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑で逮捕。弁護人なしの裁判で、懲役2年の判決を受け、投獄される(沖縄人民党事件)。

――1956年
出獄後、那覇市長選に出馬し、当選。

――1957年
市長の座から追放(瀬長布令)。

――1966年
瀬長布令の廃止により、被選挙権を回復。

――1967年
拒否され続けたパスポート取得が17回目の申請で許可され、上京。全国各地を回って米軍占領支配下の沖縄の実情をうったえる。 

――1968年
立法院議員選挙に最高得票で当選。

――1970年
戦後沖縄初の国政参加選挙で衆議院議員に当選(以後7期連続当選)。

――1971年
沖縄の施政権返還をめぐる衆院沖特委で佐藤首相を追及。

――1990年
衆議院議員勇退。

――2001年10月5日 
死去 享年94歳。