映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」公式サイト » 沖縄戦後史

教公二法阻止闘争

1967年(昭和42年)2月24日、沖縄県那覇市の立法院前で、琉球政府与党の提案する二つの法案に反対する教職員らと警官隊が衝突した。教職員の政治行為の制限、争議行為の禁止等を盛り込んだ「地方教育区公務員法」「教育公務員特例法」がその前年に立法院に勧告されると、沖縄教職員会は立法院前の泊まり込みなどで反対の意思を表明していた。当時、教職員会は祖国復帰運動、自治権拡大運動の要となっていた。採決予定日の2月24日、強行採決される動きに、教職員を中心におよそ2万人が議会前に集結。立法院議長は、与野党の協定を結ぶことで事態の収拾を図ることとし、後に二つの法案は廃案となった。

コザ騒動

ベトナム戦争中の1970年(昭和45年)12月20日未明、コザ市(現在の沖縄県沖縄市)で発生。発端は、米軍人が運転する車両が道路横断中の男性をひっかけてケガを負わせた事故。事故処理中のMP(Military Police 憲兵)を見物人が取り囲み、「糸満の二の舞を繰り返すな」と騒ぎになる。糸満町(現在の糸満市)で酒気帯び運転で主婦を轢き殺した米兵が軍事裁判で無罪となったばかりだったため、米軍への反感が高まっていた。MPの威嚇発砲をきっかけに、集まった群集が駐車中の米軍関係車両に次々と放火。琉球警察は全警官を非常召集し、米軍はカービン銃で武装したMP約300人を出動させたが、約7,000人とにらみあうなど、騒ぎは朝まで続いた。この騒動で住民、警官ら23人が重軽傷を負い、19人が逮捕された。
毒ガス兵器移送(レッドハット作戦)

1971年(昭和46年)、沖縄の米軍基地に貯蔵されていた毒ガス兵器が、米国領内のジョンストン島へ向けて移送された。米軍は、コザ市に隣接する美里村(現沖縄市)知花弾薬庫(レッドハットエリア)などに致死性の毒ガス(主要成分はイペリット・サリン・VXガス)を秘密裏に備蓄。1969年7月致死性のVXガスが漏れる事故が起き、米軍人ら24人が中毒症で病院に収容されたことを米紙ウォール・ストリート・ジャーナルが報じたことで、施設内に毒ガス兵器が存在することが明らかになり、米軍はこの事実を認めた。毒ガス兵器の総量は1万3千トン。周辺住民は事故の再発におびえ、島ぐるみの撤去運動が起こった。しかし、移送先がなかなか決まらず、道路の建設費など移送に関わる費用は日本政府負担で、存在発覚から2年余りが経過してようやく撤去が完了した。
復帰措置に関する建議書

1971年(昭和46年)秋、沖縄不在のまま日米間の返還交渉が進んでいることを危ぶんだ琉球政府が職員や学識経験者を動員して、復帰にあたっての基地や振興開発のあり方をはじめ、幅広い県民の要望をまとめ、日本政府と返還協定批准国会(沖縄国会)に手渡すために作成した建議書。132ページ、およそ5万5千字に及ぶ。屋良朝苗行政主席(後に初代知事)は11月17日、建議書を携えて上京したが、羽田空港に着陸する直前、衆院特別委員会で沖縄返還協定は強行採決された。建議書が政府や国会に渡る前の強行採決で、沖縄の願いは届かなかった。